「中二病でも恋がしたい!」と「涼宮ハルヒの憂鬱」の妙に気になる共通点について

最終回から1ヶ月くらい経っちゃったけど、ふと気づいたのでメモ。
涼宮ハルヒの憂鬱」も「中二病でも恋がしたい!」も、アニメ界では不動の人気を誇る「京都アニメーション」が制作している。「ハルヒ」は自分がアニメとかラノベを読むきっかけになったアニメでもあり、自分と同世代の人でも、ハルヒをきっかけに道を踏み外した(失礼)人は相当数いるだろう。「中二病」はハルヒの放送から6年後に放送されたアニメで、個人的には最早自分向けの作品ではないのかなあ、というのが最終回を見終わった後の正直な感想だった。

最近ボーっとアニメのことを考えていたら、この2作品がやたらと似通っているなあ、と気づいた。ストーリーの構成というか、おおまかな骨組みだけを見たら、同じ作品といえるんじゃないかと。もちろん「肉」部分に当たる、具体的なストーリーは違うし、骨組みが同じだから「使い回しだ!」と非難する気も全くないという点は、予め予防線を張っておきます。あと、今ブログを書いている段階で、両作の映像が無く、検証・確認が不可能なので、間違いがあったら指摘してください。

では、両作を最初の方から順番に振り返ってみよう。
まず第1話の冒頭からして、両作は共通している。
ハルヒは、主人公であるキョンのモノローグから始まる。そのモノローグは、「宇宙人や未来人や超能力者、はたまた異世界人なんかがいたらいいなと思っていたが、そんなもんは現実には存在しないと気づいた」という趣旨で、入学式の日に高校へ投稿するシーンが描かれている。
一方、中二病の方では、主人公の富樫勇太が自宅で、自分が今まで集めてきた中二病グッズや、振る舞いを封印し、「まっとうな」高校生として、入学式を迎えるシーンで始まる。
両者ともに、主人公視点で高校の入学式を描いているということはすぐにわかる。だが、それだけではない。面白いことに、両方の主人公は「自分の過去」を否定しているのだ。キョンは「宇宙人や(ry」がいたらいいなあ、という願望を、勇太は中二病だった自分を否定し、よくも悪くも現実的な感覚を持つようになっている。両者ともに、そういった「覚めた」感覚を持って、新たに高校生活を始めようとしている。しかし、キョンはモノローグで「でもどこかにいたらいいなあという最大公約数的なことを考えるようになった」と言っているし、勇太も高校で思わず中二的な行動をとるなど、完全に過去の自分が抜けきっているわけではない。

その後、入学式後のクラスでは自己紹介が行われる。ヒロインであるハルヒと立花は同じクラスで、とんでもない自己紹介をする。ハルヒは「この中に宇宙人(ry がいたら私のところに来なさい」とか言っているし、立花も中二病全開の挨拶をして、両者ともにクラス中をドン引きさせている。
ここでも両者の自己紹介には面白い共通点がある。
それは、ハルヒと立花の浮きまくった自己紹介が、主人公が高校入学の時に決別した「過去の自分」であるということだ。痛々しいまでに空想的で子供っぽいことを恥じらいもせず、大勢の前で主張する(キョンの昔の自己紹介はきっと違っただろうが)。主人公は高校で心機一転をしかけていたものの、自分か過去に通った道を、現在進行形で邁進しているヒロインに出会ってしまう。
このように、第一話の冒頭で、主人公が過去を否定(決別)したものの、高校の入学式の日に、自分の過去を体現したかのような言動のヒロインに出会うという流れと、その後ヒロインに目をつけられ、一緒に変な部活(ハルヒは正確には団だが)を作るハメになるところまで両作は全く同じだ。

部活を結成後はヒロイン主導で少数の部員(ハルヒ長門・みくる・小泉、中二病はデコ・くみん・森サマー)たちと「部活」で奇妙な活動を繰り広げる。伏線がはられたりしながら話数が進み、物語の後半には両作ともに、ヒロインが奇行を重ねる原因となった、「ヒロインの過去」へと話が展開する。
ハルヒは野球観戦へ行ったのをきっかけに、自分は所詮大勢の中の1人でしかなく、どこにでもいる普通の女の子なんだっていう事実に直面し、それを何としても否定したがっていた。「憂鬱」のエピソードではないが、「笹の葉ラプソディ」では「わたしはここにいる」っていうメッセージを宇宙に向かって発信しているし、自分の存在を常に主張するために奇行を重ねていたのである。
立花の場合は、過去に父が死んでいて、立花自身がその事実を受け入れることができなかった。父はどこかにいるはずだ、という空想に耽り、その結果として「不可視境界線」なる概念を生み出して、空想世界の強者へと感情移入をすることで「父の死」というつらい現実から逃げてきた。だから立花は「中二キャラ」を演じていた、というわけだ。立花のキメ台詞である「爆ぜろリアル、弾けろシナプス」なんて、まさに「父が死んだという記憶を遮断し、現実になかったことにする」という意味にほかならない。
ヒロインの過去で共通しているのは、「否定したい現実(事実)」を抱えているという点だ。そして、その現実を否定するために、高校生になっても奇怪な行動をとっているのである。

さらに重ねてヒロインの過去話で共通していることがある。それは、ヒロインの現在の状態を決定付けた過去の出来事に、主人公が関わっているという点だ。
ハルヒでは「笹の葉ラプソディ」で宇宙にメッセージを発信する際に主人公が文字を書くのを手伝っているし、どこの高校に通っているかもバレちゃってるし、「ジョン・スミス」なんて名乗ってハルヒにやたら期待させちゃっているしで、主人公が今のハルヒに多大な影響を与えていることは明らかであろう。
中二病でも、中二全開だった頃の主人公の姿を見て、立花が「かっこいい。私もあんなふうに強くなりたい」って思わせたのが邪気眼発症のそもそもの原因だっただろう。
そういう意味では、ヒロインは「主人公が過去に通った道を邁進している」というよりも、「主人公の後ろを追いかけている」という方が正確かもしれない。

そして、物語の終わりの共通点は、「自分が否定していた過去を邁進するヒロイン」を受け入れるというところにある。
ハルヒでは宇宙人と未来人と超能力者のいる、ヘンテコな現実の方をキョンが自分から選択して取り戻し、SOS団の活動を続けることで、ハルヒの存在を受け入れていた(本当に受け入れられたのは「消失」の時かもしれないが)。
中二病では、一度主人公が立花の中二キャラをやめさせて、実家に返したが、最終的には中二キャラを受け入れて、実家から連れだそうとしている。
ここでちょっと気になったのが、何故主人公はヒロインのあり方を変えずに受け入れたのだろうか、ということだ。過去で主人公がヒロインを今の状態にしてしまったからなのだろうか、それとも自分の過去を否定したくないから? それともヒロインも自然と普通の女の子に戻れると信じているのか。はたまた「ありのままの自分を受け入れてくれること」に対して視聴者の感情移入を促すという身も蓋もない理由なのか。

以上のように、「涼宮ハルヒの憂鬱」と「中二病でも恋がしたい!」のストーリー構成上の共通点について考察をしてきたが、こういったストーリーが何を意味するのか、についてはいろんな考え方があると思う。自分もストーリーの意味について、今後考えたい。
ところで、ハルヒの放送から6年後に中二病が放送されたわけだが、また6年後には同じようなストーリー構造の作品が登場するのであろうか。2018年の京アニに期待。

えっ、そんなのオンエア見てた段階で気づいてたって? あっ、はい、すいませんでした。

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