そしてインターネットは、ムラ社会へと回帰する

最近このことをよく考える。
インターネット上での(特に匿名の)つながりは、自分と気の合う人や、思想・価値観の同じような人同士であることがほとんどだ。実名制のフェイスブックの場合は、リアルの人間関係を延長したようなものになるが、2ちゃんやツイッターの場合は「ネット上の人格」でコミュニケーションをとる人が多いように思われる。インターネット上では誰とでもつながることのできるチャンスがあるが、実際には自分と「共感」できるような人とばかりつながりができる傾向にある。
その結果、オープンでフラットなインターネット上で、RPGの世界のように、だだっ広い世界のあちこちに「ムラ」が形成され、内側に閉じていってしまう傾向にある。別の言い方をすると、「内輪が際限なく強くなる時代」に突入しているのではないかなぁ、と。共感しあえる人同士の間には強い結び付きがある一方で、それ以外の人を「よそ者」として、これといった理由はないが白い目で見て、迫害する。異なるムラの住人同士の間では、互いがそれぞれの常識(掟)に従って行動しているために、議論が成立せず、「自分の正しさをどうやってわからせるか」に血道を上げる。相手をどうやってだまらせるか、が至上命題となっている。ちなみに、ここで「ムラ」と呼んでいるものは、一般的には「コミュニティ」とか、「クラスタ」って呼ばれている。

実際にどんなムラがあるのかを、いくつかピックアップしてみる。ニコ動村、ボカロ村、アニオタ村、アイドルオタ村、ニート(反社畜)村、ネトウヨ村、ソシャゲ村等々。そういえばここは「はてな村」だね。こういったたくさんの「ムラ」がインターネットには点在している。もちろん複数の村に所属する人もいるだろうが、深くコミットできるのは、せいぜい1つくらいではないか? 「よそ者」の身としては、アイドルのCDを大量に買ってる人とか、ソシャゲに大金をつぎ込んでいる人とか、一体どこにいるのかわからない。ボカロを聴いている人は友達にいるけど、自分には彼がボカロを聴きたがるのかわからない。ジャズを聴けよ、とか思ってる。
そもそも、みんなが自分を「普通」だと思ってる。CDを大量買いして自慢したり、オリコン見て喜んだり、カードガチャにウン万円投入したり、ニコ動でランク上位のボカロを聴き漁ったりといった行動は、「みんながやってるから普通だ」と。インターネットでは「同志」を見つけてコミュニケーションをとることで、自分の欲求が無制限に拡大(生のフィードバック)していき、その流れに対するツッコミというか抑止力(負のフィードバック)のようなものがなかなか働かない。自分たちの問題点とか批判に目を向けることができなくなる。

仲間が見つかる事自体はいいことだが、負のフィードバックが働かないと、自分の発言は無条件に受け入れられるはずだと「信じて」しまう。すると、異なるムラの住人と会話した時に、「何故わかってくれないのか」、「何故否定されるんだ」といった被害感が生まれる。自分の意見に賛同しない人がいるのなんて当たり前なのに、そのことをすっかり忘れてしまう。好き嫌いでつながっていることがほとんどなので、「論理」が使えない。つまり、何故自分はこれが好き(嫌い)なのかを他人に説明できない。自分という人間のことを語れないなんて悲劇としか言いようがない。自分は自分であるから素晴らしいのだ、なんてトートロジーはナルシストだけにしてくれ。

徹底して批判的なトーンになってしまった。言いたかったのは、「オープンでフラットな」インターネットが、「閉鎖的で排他的な」ムラ社会のような性格を帯びていること。そしてそれがネガティブな影響を発生させているってことです、はい。好きなもの同士が内輪で盛り上がって生きていけたら問題はないんだけどね…

つながりすぎた世界

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