軍国主義批判のパラドックス ー丸山眞男生誕100周年に便乗してー

昨日、2014年3月22日、丸山眞男が生誕100周年を迎えたようだ。
たまたま見ていたテレビでは、「軍国主義を批判し、戦後の思想に〜」みたいなことを言っていた。
丸山のことは、「日本の思想」を読んでいたので知っていた。正直何言ってるかよくわからなかったが、普段ものを考えたり、誰かの言ってることに突っ込む時に、参考になっていると思う(小並感)。

さて、丸山が軍国主義を批判していたと聞くと、ネット右翼の方々が「軍国主義を否定→軍隊を否定→左翼→反日→在日、けしからん!」とか連想ゲームを始めそうなところだ。しかし、実際のところは全く逆ではないだろうか。かつての軍国主義への批判は、戦後の日本に「正しく」軍隊を整備する上で、避けては通れないポイントではないだろうか。

戦後の日本は、戦争に負けてボロボロになったこともあってか、「軍隊は戦争の元であり、危険なもの。平和のためには軍を持ってはいけない」、みたいなアレルギー反応が根付いている気がする。オウム事件以来、宗教そのものに強い抵抗感を持つようになってしまったような感じだ。
そんな中、何がいけなかったのか、どうすれば失敗しないのか、という風に、過去を批判的に乗り越えることをしなければどうなるだろう。

たとえ話をすればわかりやすい。とある通信会社が顧客情報を大量に流出させたと仮定しよう。その後、その企業の営業野郎がやって来て、「いや、絶対に大丈夫ですから、もうあんなことにはなりませんからぜひ契約を!」とか言われて、一体誰が納得するだろうか。誰が契約するだろうか。こちらのすべき対応は「ふざけんな、帰れボケ!」だ。

同じことが軍の整備にも当てはまる。現代の平和は各国の軍のパワーバランスで何とか成り立っているものである。よって、平和を望むならば適切な力を持つ軍隊が必須なのである。
そのために、日本ではまず最初に軍国主義への批判は避けては通れない。丸山が戦後の軍整備にどういう意見を持っていたかは知らないが、丸山の姿勢というのは、実は真に愛国的で、かつ王道なものなのではなかったのではないかなあと、ふと思ったのでした。

ペンタブレットを買ってしまった

いやぁ〜やってしまった。

買ったのは、アマゾンさんでなんかめっちゃ安くなっていた、プリンストンタブレット
大幅値下げでかなり品薄状態だったようだが、流石はAmazonさん、寧ろ予定よりも早い日にちに届けてくださった。

ペンタブは、もう少し絵が上達してから買おうと思っていたのだけれど、Amazonさんの大特価ぶりと、4月19日に初オリジナル絵をアップしたい! ていう2つの事情が重なって、ソッコーでポチりました、はい。

届いたのは昨日だったのだが、なんか良さそうなフリーソフトをMacAppStoreでDLして、ペンタブで綺麗に文字を書く練習をしただけだった。なんかフォトショは月額制のCloud版しか無いみたいなんで、AppStoreにあるもので済ませてしまおうと思ってます。

そんなわけで、手描きでフツーに模写った(?)絵の輪郭をペンタブでなぞってみた。
元絵がこれ(改めて言うが、オリジナルの絵ではない)

そんでもって...

線がガタガタやん!
慣れなんだろうか? ピッと1本線を書いてみてもガタついてるくせに、ソフトには手ぶれ補正がない。
まあ無料ソフトだし、贅沢は言わない。ペイントのやり方も、ペンタブでのドローイングのコツもよくわかんないので、そっちも調べて、練習しつつ、模写の練習しつつ、続けていきたいと思います。

4月にUPする予定の絵も、参考資料をほぼ写し&加工修正しただけのものになりそうな予感...

ネットにアップするのがめんどくさいという話

ネットは誰でも簡単に音楽やブログ記事をアップロードできる。簡単に、、、簡単に?
私にとってはその簡単な手順すらも億劫になってきた。

最近も、ふと「なぜ動物愛護団体は食肉を嫌うのか」を考えた。コンビニでのフォアグラ弁当騒動で、気に入らない人間に暴力を振るうしか能の無い奴らが不快だったのがきっかけだった。
結果、「動物を食べることじゃなくて、人間が食べるために(つまり始めから殺す目的で)育てるという仕組みを憎んでいるのではないか。」という結論に達した。肉食動物とは違い、人間の食肉は無駄な廃棄が多すぎるし。そもそもフォアグラって作り方残酷だし。誰があんな方法考えたんだよ…
嫌煙団体が「風立ちぬ」に抗議するのと同じで、自分たちの存在意義に則った行動をしているだけだと思う(私は狂信的な嫌煙厨が死ぬほど嫌いだが)。

でも、めんどいのでブログにアップするのをやめた。あれこれと考えを巡らせて、結論に達した時点で私は満足してしまったのである。それからわざわざキーボードで私の考えを打ち込んで、誤字脱字を探して、話の展開に違和感ないかを探して… そういう作業って自分にとって完全に無駄な時間なんだよね。ブラインドタッチができない私にとって、タイピングは結構なストレスだし。

ブログだけではない。もっとめんどくて、すっかりやっていない作業に、音楽のアップロードがある。
最近ボカロの超絶アレンジ(原曲レイプともいう)をやっているのだが、アップがめんどくさい。youtubeやニコニコにアップしようとしたら、静止画でも何でもいいので映像をつける必要がある。静止画はiPadで簡単に作れるけれど、音と絵を動画にするのは死ぬほどめんどくさい。iMovieだと映像のビットレートが高すぎて、下手するとニコニコはアップする時に容量オーバーになるし、アップする時に色々情報を打ち込むのもめんどくさい。
SoundCloudは音楽だけでアップできる!と思ったけど、容量の制限で引っかかり、断念した。なんかもう一番楽でいいのはDropboxの共有リンクかなあとすら思えてきた。これならTwitterとかブログにリンクを貼るだけだし、いいかも。あるいは、MEGAとかまだ使い方がよくわかってないけど、これも簡単でいいかも…と思ったところで、ニコニコとか、youtubeとかの「場」の恩恵を受けられないので何か微妙だという結論に。

私に最適なサービスがあるんだったら是非教えてください、Twitterで。
それとも、もうすっぱりとネットから足を洗った方がいいのだろうか。

あー、疲れた。

スマホが大型化するワケ

今年はスマホ以上、タブレット未満な液晶サイズの「ファブレット」がブレイクしそうだ。次期iPhoneもどうやら大型化するらしい。iPhone6は液晶サイズが4インチ後半と5インチ台の2モデル発売するという噂で持ちきりだ。
何故今ファブレット?まだ大型化するの?と思っていたが、なんというか、必然の流れかもしれないな〜という結論に至ったのでつらつらと書く。

そもそも、今日販売されているスマホの、デファクトスタンダードであるiPhoneが発売されるまでは、スマホといえば「BlackBerry」のようなqwerty配列の物理キーボードを搭載したものが主流だった。スマホはビジネスユースが中心で、個人で利用している人は、ガジェットマニアくらいだった。そんな中、iPhoneは物理キーボードの代わりに大型のタッチパネルを搭載し、直感的な操作で、どこでもインターネットにアクセスできるモバイル端末として売り出された。その結果、ビジネスとは無縁のユーザーにもスマホは普及し、いつでもどこでもネットにアクセスできる時代が始まった。

しかし、タッチパネルを搭載してより直感的にネットを楽しめる、というアイデアで最初に試作されたデバイスは、実はiPhoneではなくiPadだった。もともとiPadのプロトタイプ的な端末の開発が進められていたが、当時、ジョブズが満足できるスペックを実現できなかった(バッテリーの持ちやプロセッサの性能が悪く、分厚くなってしまう)。それにPCが全盛の頃にいきなり板状のデバイスを出したところで、誰もどうやって使えばいいかがわからない。あまりに唐突過ぎて誰もついてこない。
アップルとしては、タッチ操作でインターネットを楽しむという感覚を、何とかして理解してもらう必要があった。
そこでアップルは、みんなが当たり前に持ってるデバイスだった、ケータイに着目した。すでに世の中に浸透しているデバイスに付加価値をつけることで、当時の人々の感覚と、アップルが理想とするインターフェイスのギャップを埋めようとした。
つまり、PCからポストPCのデバイスであるiPadへの橋渡しとして、iPhoneが開発されることになったということだ。
今日のスマホタブレットはこのような経緯で生まれた。

「タッチ操作で、いつでもどこでもネットにアクセス」というコンセプトが世の中に受け入れられるようになると、もはや昔の「携帯電話」の形を借りる必要がなくなる。「ケータイ+α=スマホ」から、「スマホスマホ」という風に認識が変わる。しかもSNSが普及したお陰で、音声通話の利用頻度は激減している。しかも、スマホは携帯電話の延長線に存在する端末なので携帯を機種変更する際にスマホへと移行はできる。

一方タブレットは全くの新規で、PCやスマホにプラスして買う必要がある。でも、たくさんデバイスを持つと、かさばるし、乱雑だし、お金かかるし、テザリング面倒いし... タブレットの購入は、ヘビーユーザー以外にとってハードルが高い。

だから、スマホみたくLTE通信がデフォルトで、一応電話ができて、でもタブレットみたいな快適なブラウジングができて... みたいないいとこ取りをしてみようとした結果、誕生したのがファブレットだ。
ファブレットは、スマホが携帯電話の殻を破って、「通信デバイス」としての側面が最大限に強調されたものであると、私は考えている。iPhoneiPad両方持ってる私でも、タブレットの絶対的な魅力といえば、画面大きい=手書きメモが超優秀、電子書籍(特に漫画)閲覧に最適、フルサイズのサイト閲覧に便利ってくらいしか挙げれない。最早インターネットと、サービス全般がスマホを前提として作られてきているので、タブレット・PCでなくても大して不便には感じない。

ただ、ファブレットや大型スマホでビミョーなのが、画面でかい≠表示領域広いになりがちなところ。つまり、画面の大きさの分だけ、ただコンテンツを拡大しただけになっている。そこが残念。4インチのiPhoneと5インチのNexus5の比較動画をYouTubeでみるとそれがよく分かる。動画や画像中心の最近のアプリやネットだと特に顕著なのが余計に残念。

正直、終わりの見えない大型化競争は、音楽業界の音圧競争みたいで嫌気が差しているんだけどね。どっちも生産者様のご都合が丸見えで、本質を見失ってるような気がするし。

フルサイズiPadを家で愛用してる私も、次はミニをあえて買おうと思ってます(冒険してKindle Fireっていう案も)。
これでファブレットがユーザーにウケなかったら、俺マジピエロだね。

iPhoneiPadの開発に関しては、スティーブ・ジョブズの伝記を参照。記憶違いがあるかも...

承認欲求? 確かにその議論は間違ってないけど、それが全てみたいに言わないでよ。

最近、私の最も敬愛するブロガー2人の間で、承認欲求に関する話題が熱い。

なぜ承認欲求と自己愛が問題になるのか? - デマこいてんじゃねえ!
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20140105/1388933903

承認欲求そのものを叩いている人は「残念」 - シロクマの屑籠
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140109/p1

だが、ふと思ったけど、ネットには個人の承認欲求だけが渦巻いているってわけでもないでしょ?

インターネットの大前提は、善意と、データベースの蓄積だと思ってる。
行き過ぎた行動や議論に歯止めをかけたり、逆にムーブメント的な事を起こしたり、、、それって全部個人の欲求で片付けていいものなのだろうか?
ネットに上がった無数のコンテンツが、反応しあって、全く新しいオリジナルが出てくることだってある。まさにジョブズが言っていた「connecting dots」だ。まるで無数の星の間に線を結び、星座を作り出して、ストーリーを語るがごとく!(ドヤ顔)
だから、ネットに何かを残す行為は、それ自体が個人のエゴをはるかに超えた価値を有するものだと、私は信じている。

承認欲求そのものに対する「批判の批判」、それは正しい事だと思う。それこそ、ここで言っているところの、個人のエゴを越えた議論を産んでいる。
「〜する誰か」の存在そのものを否定し、ネット上に〜してはいけないという、暗黙のルールを積み上げていくのは良くない(あれ、矛盾してる?)。よくわからない形式的なルールばかりができると、ネットそのものがオワコン化するか、新しい世代に駆逐されるかしか未来がなさそうなのだけれど。

と、ここまで書いて、承認欲求関係の話題の起点が「〜してみた」に代表される、の同人系創作であること、承認欲求批判への反動から生まれたものであること、私の敬愛するブロガー2人だって、エゴを超えた何かがネットに存在していることだって、当たり前のように知っていてこういう議論を起こしているんだろうなーとか思い至って、このエントリは着陸失敗です。

あー。

日本の「クール」の正体を語る。或いはなぜ政治主導のコンテンツ輸出が成功しないのか。

Gunosyを見ていたらこんな記事がリコメンドされていた。

AKBはわいせつ物である論
http://togetter.com/li/603777

ASEANの首脳たちの前でAKB48がパフォーマンスを行ったようだ。
これが本物か、はたまたガセなのかはどうでもいい。大事なのはこれをきっかけに思い至った「クールジャパン」の正体だ。

安倍さんは、「クールジャパン」を宣伝したかったのかもしれないが、そもそもAKBって、「クール」じゃないんだよね。
「クール」なオタクコンテンツは、無名の個人が支えているものであって、マスメディアが支えているものではない。それに、何ていうか、アイドルがコモディティ化してるせいなのか、パッと見せられても、ASEANの方々はK-POPと何が違うのかよくわからないんじゃないの?。1曲歌って踊るだけで、AKBはどの辺りが日本らしいか主張できているのだろうか。
とはいえ、ミクのCGを踊らせてみても、相当に気持ち悪いと思うが...

2次元コンテンツに限定して言えば、愛好者はテレビ様から「犯罪者」呼ばわりされ、公にもしにくいものだ。
「萌え」というのは、ちょっと囓っただけでは、その意味や魅力を理解できない。だからオタクは偏見の目で見られがちだ。そして、年に2回あるお祭りで売られる同人誌は、キャラクタが服を着ていないことがほとんどだ。オタクコンテンツは、エロという側面を見ることなしには語ることができなくなってきている。オタクコンテンツというのはそもそも「意味不明」かつ「不健全」なものなのである。
徹底した意味のない形式美。性的で不健全。それにも関わらず、オタクコンテンツは排除されることなく、商品は流通し、より一層独自の発展を遂げている。そういった日本の不思議さ、独自性に対して、外国人は「クールだ!」と言っているのではないのか?

だから、公的な存在がオタクコンテンツを堂々と認めてしまうと、なんだかなぁ〜って感じがする。むしろ、公には心良く思われていないにもかかわらず、草の根的に支持され、拡大していっている、みたいなストーリーの方がいいと思う。

政治家主体じゃあ、クールジャパンは一向に輸出できないし、会議するだけ人件費、というか税金の無駄だと思うよ。

人を見た目で判断するのは、必要悪です。

あなたは人を見かけで判断する人間だろうか。
人の内面は外見に表れる、だの、その人の内面は見れば判断できる、などと宣言する人を、「第一印象では」私は信用していない。
なぜなら、そういった人は思い込みや先入観をいつまでも取り払わないことが多いからだ。

例えばこんな感じだ。
A「お前ってさあ○○っぽいよね(○○とか好きでしょ)。」
私「いや、別にそうでもないよ。むしろ△△かな。」
A「嘘だぁ〜 絶対に○○だって。」

私も人を見かけのイメージでその人の内面を判断することがある。むしろそのほうがずっと多い。しかし、外見だけで、第一印象だけで、他人の人格を判断することは正しいのだろうか。

・・・
人は見た目が9割、らしい。そういうタイトルの本もあった。私はその本を読んだことがないので、その題がどういう意図で付けられたのかは知らない。でもそのとおりだとは思う。
なぜならば、一生のうちに出会う9割の人間は、その人の内面を深く知らない程度にしか付き合わないからだ。出会うすべての人に対して、内面まで深く知ろうなんて、到底無理な話だ。だからこそ、我々はパッと見で、人を判断せざるを得ない。第一印象だけで、その人の性格を推し量り、対応する必要がある。この感覚は、接客のバイト経験等があれば理解してもらえると思う。
見た目に気を使う必要性は、そうやって発生する。そのことを処世術として理解している人は、「どのように自分を見せるか」を考えながら着る服を選び、髪を整え、アクセサリーを身に纏う。ジェスチャを工夫する。他人に自分をよく見せる技術を持っている人は得をする。逆もまた然り。
そう、人は見た目が9割と言われるのは、それだけ浅い付き合いの人が多いからである。

では残りの1割はどうだろう? 1割の彼・彼女らはお互いの内面まで知るほどに深く付き合う人たちだ。
あなたの親友を想像してみてほしい。もしいないなら「創造」して考えてみてほしい。彼・彼女がどういった人間かを判断するのに、見た目はどの程度役に立っているだろう。「ああ見えてあいつは〜」といえるような要素をたくさん知っているはずだ。人は見かけによらないものだ。 酒飲んで話をする程度でも、見た目とのギャップって色々と出てくる筈だ。 だからこそ、誰かと腰を据えて話すのは楽しいのである。

それ故に私は、人を見た目で判断することは必要悪だと主張したい。ホントはしないほうがいいし、そのほうが楽しいんだけれど、見た目で判断しないとどうにも立ちゆかないのである。

ちなみに私は「尽くイメージと違う」とよく言われます...