汝が何者であるかを知れ - 佐々木俊尚 著「当事者の時代」を読んで考えたこと

インターネットの普及以降、情報は爆発的に量を増し、仕入れることはより簡単になってきている。わからないことは手元にあるスマホで検索すればいい。ニュースだってリアルタイムに、様々なメディアが発信している。テレビや新聞しかなかった時代と、インターネットのある時代では、情報への接し方が一変したといっていいだろう。

しかし、情報を得る媒体が変わっても、新聞、テレビ、インターネットに共通した問題がある。それは「偏り」だ。1つの事象に対してどういった角度から光を当てるかによって、その事象の見え方は変わってくる。そして、光の当たらない部分は認識されることがない。メディアではマジョリティが注目されることは少ない。
多様化した現代では、「〜が流行っている」と言ったところでそれを認識し、その流行に乗っている人は決して多くはない。一風変わった流行りのように、局所的な、「異質」なものがメディアでは好まれるし、そういう情報の刺激はうけがいい。
「テレビや新聞は偏った報道をする」と得意げに語る人がネット上には存在する。だが、それは嘘だ。確かに、ネット上ではありとあらゆる人が発言権を持っているので、マクロに見れば偏りがなく、多様なメディアであるということができる。しかし、個人レベルで見ると、ネットが一番偏りがちだと思う。個人ではネット上の膨大な情報は処理しきれない。2chTwitterFacebookといったプラットフォームの中で、居心地の良い空間を形成、あるいは発見して、そこに安住するようなことがあれば、そこに入ってくる情報は相当に絞られる。自分の属する「ネット世間」とマスメディアとのギャップに対して「偏り」という言葉で身の回りを正当化しているような気がしてならない。このへんはリアルでこういう発言をする人にあって話をしたことがないので、確証はまったくないのだが。

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

日本のネット界ではかなりの有名人であり、影響力も絶大なキュレーター・ITジャーナリストである佐々木俊尚氏はこの「偏り」に注目し、ネットの時代においては個々人の発言にまで影響を与えている、「マイノリティ憑依」という概念を生み出した。この「マイノリティ憑依」によって一つの事象に対する光のあて方に大きな偏りが生まれている。

「マイノリティ憑依」とは何なのか。読んだ限りでは、マイノリティ憑依とは〜という意味である、という形の文章が見当たらなかったので、自分の言葉でまとめてみよう。それは一言でまとめると、「自分とは異なるはずのマイノリティへ自分を重ね合わせ、彼らの視点で勝手に意見を主張する行為」という感じだろうか。もっと抽象的に言えば、当事者ではない人が当事者に成り代わる行為だ。

例えば、原発問題で安定した電力供給とか、経済への影響を抑えるという観点から、原発を支持した時に、反対派の人間が「それを福島の人の前でも言えますか」と反論した場合、この反論がまさにマイノリティ憑依である。この反論の言い方からして、反対派の人は福島に住む人ではない。それにもかかわらず、日本の人口でいうと2%に満たない、原発事故で被害を受けた(県民全員が被害を受けたわけではないが)福島の人の意見を勝手に代弁してしまっている。議論の際にこういったことを言うと、それでも原発支持者が意見を通そうとすれば、人間性に問題があるように受け取られかねないし、何より反論として論理のかけらも存在していないので議論が行き詰まり、発言しにくい「空気」が形成される。そして例のマイノリティ憑依の発言をした人だけが得意げな顔をしている、というのが典型的だろう。
マノリティというのはどうしても社会的な立場が弱くなりがちだ。マイノリティをマイノリティであるという理由で攻撃したり、無視したりすることは間違った行為だが、そこに「憑依」してもいけない。

それは何故かというと、マイノリティ憑依をする人の背後にある心理に問題があるからだ。
マイノリティ憑依によって、本来傍観者であったひとが、「神の視点」とでもいうべき絶対的優位に立つことが可能になる。上の「それを福島の人の前でも言えますか」発言で考えてみよう。この発言をした人は、原発事故で被害を受けた人に自分を憑依させている。本来であれば、同じテーブルで議論している原発支持者、反対派は、どちらも原発事故で避難することもなく、ただマスメディアやネットでそのことを知った人たちである。つまり、今まで「まあ事故なんて起こらないっしょ」みたいな考えで原発について特に意見を持っていなかった人は、加害者になりこそすれ、被害者にはなりようがない。

ただ、事故に関してすべての責任を東京電力に押し付けることで、「悪いのはあいつらだ!」と声高に主張する人はいる。東電に過失があるのは明らかだが、何故か自分自身を「被害者」の立場に持って行こうとするのだ。被害者であれば、加害者に対して一方的に攻撃することが可能となる。こういった裏には日本人のメンタリティである「被害者意識」が絡んでいるのだが、それはまた別の話。

ただの傍観者や、ひょっとすると加害者であるかもしれない人たちが、不遇の扱いを受けた「被害者」であるマイノリティへと自分を憑依させることで、絶対的優位に立ち、相手に対して無制限の攻撃をすることができるようになる。憑依している側としては、自分は被害者であるという感覚にとらわれているので、加害者となる可能性を考慮しない。「こういう立場に立たされた人がいるというのに…」というような発言で相手の人格を否定したとしても、だ。
このように、マイノリティへ憑依することによって、傍観者は「神の視点」と手に入れる。

最近ではいじめによる自殺や、過酷な労働環境に耐えかねての自殺、といった事件があった。自殺が起った以上は、いじめた人間、集団の責任者等に過失があったことは疑いようがないが、ニュースでこれらを知った傍観者である大多数(マジョリティ)は当事者ではない。この時マジョリティが当事者となりうるのは、「日本のシステム」みたいな、かなり抽象的な部分だろう。今後このような悲劇を生まないためにはどういった仕組みが必要なのか、を議論するならば、事件の当事者として参加ができるのかもしれない。
しかし、事件の被害者に憑依して、加害者に無制限の糾弾をするのは、まさに説明してきた「神の視点」にほかならない。自身は被害者になりきっているので、加害者に何をしても許される。個人情報を暴露しようが、決して「加害者」としての意識は持たない。このへんの問題の厄介なところは、「それを福島の人の前でも言えますか」と同じように、マイノリティ憑依をしている人に反対すると、その人は何か人間性に問題があるとして攻撃されかねないほどの過激な空気を形成していたことだ。今後もこういった事件が起きた時に、マイノリティ憑依は起きるだろう。

このマイノリティ憑依と、局所的な視点ばかりを強調するという2つの「偏り」が現実世界の実像を歪め、退廃的な優越感を生んでいるのではないかと思う。前回の記事に書いた、パーソナライズやフィルタリングによって、インターネットから見える世界は歪みが発生しやすい。自分とは直接関係のない事象において、加害者を絶対悪とし、自分たちがマイノリティ(被害者)を代弁する「正義のヒーロー」のように立ち振る舞うという、構図はテレビ・新聞以上に発生しやすい。フィクションの世界に登場する正義のヒーローは、悪者を暴力でもって排除しているが、決して罪には問われない。しかし、本来ならば、「神の視点」による絶対的優位から脱却して、加害者となる危険性を十分に考えなければいけないのだ。そして、当事者として、議論に参加できる視点を見つけなければいけない。

一人でも多くの人が「悪者への正義の鉄槌」から「問題解決のための生産的な議論」へと流れていってくれればいいのだけれど…

「甘え」の構造 [増補普及版]

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