インターネット上ではみんな違う「世界」を見ている - 閉じこもるインターネット グーグル・パーソナライズ・民主主義

最近読んだ本について、考えたことなんかをつらつら書いてみようかと思います。書評というよりは、本の内容からをダシに考え事をするっていうスタンスです。

さて、インターネットというのは非常に便利なシロモノだ。知らない単語をグーグルで調べれば大体のことは書いてあるし、ニュースの量も膨大にある。旧来のメディアである新聞やテレビとは異なり、放送時間や紙といった「情報量」に対しての制約がない。外国の情報サイトを原文のまま読むことだって容易だ(もちろん読めるかは個人の力量によるが)。更に最近ではSNSの普及によって身の回りの親しい人から全く会ったことのない人まで、活発なコミュニケーションを取ることが当たり前になった。
インターネット上にはあらゆる情報が集まり、びっくりするほど賢い人達が世の中の様々な事象について意見を発信している。その中から自分の欲しいと思う情報を探すための検索技術はいっそう高度化しているし、SNS上では賢い人の発言を簡単にフォローし、議論に参加することもできる。
とまあ、もし自分が牧歌的なネット礼賛者であったならこう言って終わりにしてしまうところなのだが、ちょっと待って欲しい。本当にインターネットはそんなに理想を体現したような最強のツールなのだろうか?

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

本書では、インターネット上に存在している「個人に最適化されたフィルタリング」、すなわち「パーソナライズ」の危険性を指摘している。
パーソナライズが進むことによって、人は自分が見たいと思う情報以外が視界に入らなくなり、更にその中で取捨選択することで、情報の幅がより一層縮まっていく。すると、価値観、思想が分断されていき、社会全体の便益を追求不能になることも示唆している。
そう、たしかにネットにはあらゆる情報があるかもしれないが、個人はその膨大な情報の一部しか見られない。しかも、その情報が自分の興味のあることに偏るのはある意味当然だけれども、そこにパーソナライズが入り込むことによって自分の周りに「フィルタリングバブル」が形成される。それによって自分の見ている世界以外が見えなくなってしまうのだ。しかも当人たちはそれに気づかない。

例えばグーグルはユーザーが探している情報を表示しやすくするために、検索の情報を収集している。グーグルのアカウントを持っていれば、個人の性向によって検索結果を変えてくる。気に入らないサイトはユーザーが表示できないようにブロックできる。本書では同じ単語でも、検索する人によって実際に結果が変わるという例を引き合いに出していた。これが本当ならば、信者とアンチではお互いの都合に合わせた結果が表示されて、その対象に抱くイメージにより大きな乖離が生まれるだろう。2chまとめサイトばかり見ている人の検索結果には、扇動的で、ネガティブな情報が表示されやすくなるだろう。普通の人が「韓国」と検索するのと、ネット右翼が「韓国」と検索するのでは結果が変わってくるだろう。しかも、ユーザーは検索結果は中立で、みんなが検索対象に対して同じイメージを共有していると思い込みがちだ。しかし、それは自分が気持ちよくなれるように手を入れられている。
当然ながら検索エンジンの仕組みはユーザーには全くわからない。グーグルはプライバシーの問題でよく話題になるが、それはパーソナライズのため、ユーザーの「グーグルすげえ!」感を演出するため(陰謀論気味)に情報を集める必要があるからなのだ。

SNSはパーソナライズの極みのようなものだ。ツイッターでは自分のフォローしている人の発言だけがタイムライン上に表示される。言い換えれば、自分に都合の良い情報で埋め尽くすことが可能だ。リテラシーの高い人ならば、バラバラな思想をタイムライン上に混在させたりしてバランスをとるかもしれないが、大概の場合は違う。原発推進の人のタイムライン上には原発推進のつぶやきが、反原発の人のタイムライン上には反原発のつぶやきが多い、なんて話もある。自分の価値観が周りの似たような人によって増強されるのかもしれないし、朱に交われば赤くなるのかもしれない。
いずれにせよ、ツイッター上では囲い込まれた世界にいるのに過ぎず、外の世界の存在に鈍感だ。ツイッター上で飲酒運転みたいな犯罪暴露で炎上することがあり、一部では「バカ発見器」と呼ばれているそうだが、自分のタイムラインを見ている限り、そんな世界なんて存在していない。でもツイッターをやってなくて2chまとめサイトばかり見ている人からすれば、ツイッターは「バカがどうでもいいことばかり言ってる場所」というふうに映るのだろう。
フェイスブックの場合はパーソナライズが顕著だ。ユーザー全員は「個人」としてフェイスブックから認識されている。しかもツイッターとは違い、見えない部分でフィルタリングが行われている。「いいね」ボタンを押してつながっている友人に紹介すると同時にフェイスブックにも自分の価値観を表明する。また、友人の「いいね」が押された記事のリンクをクリックするか否かでも価値観が見られる。フェイスブックを使えば使うほど、そこでのパーソナライズは正確になっていく。すると、自分に興味のあること、好きな事で世界が埋め尽くされていく。広告のマッチングは上がり、業者はウマウマだ(また陰謀論気味)。

ネット上にはあらゆる情報があるかもしれない。でも人はその一部しか見ない。それも偏った一部分しか見ないことが多い。自分に都合の良い情報で周りを囲う「フィルタリングバブル」は世界の絶対的な広さを狭め、かつ自分の社会における価値観のポジションを見失わせる。バブルの中では自分が中心で、自分だけが正しいのだ。そうなった時、世界観の全く異なる人同士でのコミュニケーションはどうなるのだろう? どんな音楽が好きかについての話ならば別に問題はないだろう。しかし、自国のあり方のような多くの人を巻き込む議論するとき、「当たり前のように見えていた世界」のギャップは、お互いの価値観や思想の断絶を意味するのではないか?
インターネットは我々に「全能感」をお手軽に与えてくれるツールである。見える世界がフィルタリングバブルで狭まるのだから、「俺は全て知っている」感を得やすくなるのだ。しかし、「きっと自分のことをわかってくれるはずだ、だって自分は正しいのだから」という甘えた気持ちでコミュニケーションをとると痛い目にあう。分断された世界の溝に目を向けないと、違う価値観に対する不寛容、そしてそのままナルシズムへと転落していきそうだ。

今まで散々偉そうに書いてきたが、パーソナライズの流れは止まらない。それに、自分はパーソナライズを止めるべきだという考えは持っていない。グーグルやSNSの登場で、膨大な情報量を持つインターネットが万人にとって使いやすいものになったのも事実だ。
だが、「自分に都合の良い世界を見せてくれるインターネット」についてはもう少し考える必要がある。こういったパーソナライズに対してそもそも認識しておらず、その結果コミュニケーションに齟齬が発生しても、「我々は騙されていた」とか「営利企業に踊らされていた」と被害者を気取ったところで、誰も助けてくれない。たった1つ必要なのは、広大なネットの海を自分で泳げる能力なのだ。
大海へ繰り出して溺死しないように。そして、井の中の蛙にもならないように。